40 壮絶 ! 山論を鉄火裁判で決した 〔西会津町〕

管理番号3855 綱沢山

 西会津の綱沢村と松尾村の間で山の境界争いがあり。両者譲らず、西会津町の諏方神社境内で、最初に綱沢村の治郎右衛門、次に松尾村の清左衛門の順に、真っ赤に焼かれた「鉄火」を両手に受け取る鉄火裁判が行われ、清左衛門がその場に倒れ死亡し、綱沢村の「勝」・松尾村の「負」が決まり、清左衛門の遺骸は頭部・胴部・脚部に三分割し、綱沢村の主張する「綱沢山の山界」の三カ所に境塚を築き埋葬し、その塚の上には後年、供養塔が建てられ、今も「足塚」「胴塚」「首塚」として残されているとのことです。

会津史学会・歴史春秋第55号の57ページには
「・・・その多くは慶長十四年(一六〇九年)から元和五年(一六一九)の一〇年間、伊賀・近江・常陸・下総、又、会津では西連寺村と落合村(現磐梯町)の入山争いでも行われた事が分かった。しかし、実際に双方が鉄火をとって是非を決したのは「西会津」だけで・・・」と角田十三男さんが、歴史上唯一行われたであろう鉄火裁判の研究成果を、『 研究ノート「鉄火之可為勝負候」昔の西会津に起きた山境争いの鉄火裁判 』として発表されています。

 元綱沢村の青津家には、関係古文書も残っており、その後書かれた新編会津風土記 縄澤村の記述には、以下のように書かれています。

○塚三 一は村より丑の方三十町餘にあり、周四丈五尺胴塚と云、 一は其東二十町計にあり、周五丈五尺首塚と云、 一は又其東十五町計にあり、周三丈五尺足塚と云、共に高六尺、元和中此村と松尾村と山界を争ひ蒲生氏に訴へしに、兩村ともに入べからずと裁斷ありしを、強て訴へしかば此村の次郎右衛門、松尾村の淸左衛門と云もの二人野澤本町諏訪の社前にて鐵火をとらしめしに、次郎右衛門恙なかりしかば淸左衛門を誅戮し、其骸を三分して埋め、・・・・(大日本地誌大系(二十六) 新編会津風土記 第四巻 雄山閣 昭和35年3月25日発行312ページ)

(2014年9月)