43 戦後十年を過ぎての悲しい 出来事 〔南会津町〕

管理番号 峠077 駒止峠

 「興安丸」 と聞いて 引揚船 を思い浮かぶのは、昭和二十年代始め以前生まれの方と思います。
その船歴を検索してみてみますと。
昭和11年 3月14日 三菱重工業㈱長崎造船所で起工  
昭和12年 1月31日 関釜連絡船として就航  
昭和20年 8月31日 引揚船に指定され博多・仙崎-釜山間を往復
昭和31年12月26日 シベリヤ抑留者の最終梯団を乗せて舞鶴入港  等とか書かれています。
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昭和31年(1956年)12月23日付の福島民報福島版1面に大きく
「悲劇の雪上車転落」 「駒止峠のふもと」 「夫の帰国迎える道」 「艶子さん 吹雪の中に死す」 「ソ連抑留の留守を守って苦闘十年のかいもなく」 の見出しで、

又、同紙の会津版の1面では
「雪上車、崖下に転落」 「駒止峠のふもと」 「同乗の婦人が死亡」 「ソ連帰りの夫待たず」 「艶子さん 迎えにゆく道での悲運」 の見出しで、この事故を報じています。

 12月22日朝6時頃、南会津郡南郷村(現南会津町)の山口郵便局を田島郵便局に向け出発した逓送用雪上車は、 駒止峠 で猛烈な吹雪にあい前進することが出来なくなり、引き返す途中、午前十時三十分ごろ、約二十㍍の崖下に転落し、同乗者五名のうち、山内艶子さんが亡くなりました。

 
 艶子さんは、夫の林徳さんとの結婚のため満州に渡り、敗戦でソ連に夫が抑留され、先に帰国し地元で助産師をし夫の帰えりを十年の間待っていました。12月26日興安丸で 夫の帰国するのを知り、入港地の舞鶴に向かうために12月22に雪上車に同乗し、この事故に遭遇したのでした。

 そして「興安丸」にとっては、この舞鶴港への入港はシベリヤ抑留者輸送の最後の仕事でもありました。

 帰国を果した夫の林徳さんは、失望のあまりその後自宅の裏山で自殺をされたとのことです。

 それは後に、曽野綾子氏により短編 「只見川」 となり、舞台にもかかったそうです。

 駒止峠での、一組の夫婦のあまりにも悲しく切ない出来事でした。

 第二次世界大戦では日本人だけでも三〇〇万を・アジアでは二〇〇〇万を超える人々が、世界全体では五〇〇〇万を超す人々の命が奪われました。 餓え ・ 戦闘 ・ 特攻 ・ 人間魚雷 ・ 生体実験 ・ 私刑 ・ 焼夷弾 ・ 原子爆弾 ・ 拷問 ・ 事故 ・ 自死 ・ 栄養失調 ・抑留・ ・ ・ ・ ・そしてこの死

 戦争がなければ死に遭遇することはなかった命だったはずなのに、その数が 三〇〇万・二〇〇〇万・五〇〇〇万、想像を絶するあまりにも多くの人々が亡くなりました。戦後七〇年、この一人一人の 無念 を改めておもいます。

(2014年12月)