44 宝の山 と 年貢 と アカガネゴテン 〔玉川村・猪苗代町・磐梯町〕

管理番号 0216磐梯山
管理番号 4184宝の山

 宝の山と云えば、民謡にも歌われている 会津磐梯山 を思い浮かべます。

 しかし、大正5年5月6日発行の 福島縣地誌には
 「・・・大同元年(806年)磐梯山の破裂あり月の輪、更級の二荘埋没して水湛へ一大湖水をなせるもの之れ即ち猪苗代湖となりたる如し、此の頃磐梯山は病悩山と云ひて魔魅住み、往々附近村落に祟りをなしたりと云うに又斯かる變災ありしかば人民益々憂慮してその堵に安んずること能はざりき・・・」 (現在の知見では: 猪苗代盆地の陥没と泥流によるせき止めにより、猪苗代湖は誕生したようです) との記述があり、又1888年(M21)7月15日07時45分頃、461人もの命を飲み込んだ磐梯山の爆発は、流れ出した泥流で桧原湖をはじめ多くの湖沼群をつくりだしました。
まさに病悩・災いの山であり、宝の山とは到底云えない存在であったようです。

 そこで調べてみましたら、「会津磐梯山は 宝の山よ 笹に黄金が エーまた成り下がる」とありますが、この歌は「1934年(昭和9年) 小唄勝太郎がビクターレコードより発売し、全国的に広まった。」との記述がみつかりました、
近代になってつくられた 新しい民謡 のようです。

 面白い記述を発見しました。
 昭和51年3月10日発行 会津の峠 上 杉峠と諏訪峠 の項に、『・・・「会津磐梯山は宝の山よ・・・」は「会津坂内さんは(の?)宝の山よ・・・」であって、坂内家を歌ったものでると伝えられている。坂内利三郎の仁徳を称えたものだとも言われているし、また労務者を集めるため歌わせたものとも言われている。・・・』と書かれています。
 もしかすると、上記の坂内利三郎氏への 賛歌 が本歌なのでしょうか?
(※坂内利三郎とは、0375赤羽根山 や 0378日向倉山・柏木山一帯の鉱山等を支配していた豪族か?)

 正真正銘の 宝の山 がありました !
 昭和51年3月20日発行の 玉川村の俗地名と伝説 によりますと、痛快な言い伝えの残る 宝の山 がありました。以下がその記述です。
「たからの山・昔当地の作付を検見に来た役人に田んぼの真ん中にある小高い山の手前だけを案内して、山の陰にある一町歩余り田んぼを案内しなかったので検地に入らなかった。そのために年貢が楽になり、この山を、たからの山と云っている」。

 過大な年々の貢租に苦しめられていた農民にとって、田んぼを隠し、無いものとしてくれた山はまさに 宝の山 であったのだと思います。
 残念ながら、その後宝の山は開田され田んぼになり、消失してしまいました。

「面白い記述を発見しました」其の2
会津図書館で閲覧した「会津雑記録」(鈴木喜市著 昭和52年8月5日発行 82ページ)に坂内さんについての以下の記述を発見しました.

 野沢の南、大久保神社から山越しで柳津に行く途中に黒沢と言う部落がある。この地の銚子岩というところに銅の露頭を発見しで開発に着手し、黒沢金山一帯の支配者加賀茂肋より独立した坂内某が、罪あって三宅島に遠島されたそうだ。その弟坂内理三郎がこれを引継いでから躍進著しく、付近の銅山を合わせて支配することとなった。
 坂内理三郎は日の出の勢いで七つの土蔵を作り、会津一の金持ちとなり、藩に御用金の用立てをしておったとのことである。また江戸三田の会津候に銅瓦五十万三千枚を献じたそうだ。会津候の上屋敷を人よんで銅〈アカガネ〉御殿といっておったそうだ。
 黒沢鉱山は銅と金が盛んに出て、金も笹の間に露見しておったので誰が歌ったか玄女(如)節に「会津坂内さん宝の山よ笹に黄金がなりさがる」と歌われ、その歌が世の中に広がり、会津坂内さんが盛んに歌われるようになったのである。
何時の時代か、確か明治時代であろう。「会津磐梯山宝の山よ 笹に黄金がなりさがる」 となってしまった。その歌が全国的になって、津々浦々まで歌われるようになったのである。
 敢えて会津坂内さんを固持するわけでもないが、昔は「会津坂内さん宝の山よ」であったと言うことである。(山都町・小沢弘さんより)

(2015年10月)