45 山と人々の深い係わり〔桑折町〕

管理番号 1921 松原山

 図書館には先人が営んできた生活の記録が残されています。
県立図書館で閲覧した 「くづの松原」 (1973年8月16日発行)・この本も山と人々の出来事を書き記した貴重な一冊だと思います。そしてここに書かれている事は、多少の違いはあっても何処の農村でも辿ってきた事のようにも思われます。皆が協力しあって必死に生きて来た祖先の様子が目に浮かび、今に立って思えば厳しい生活のなかにもほっこりとなつかしい気持ちにさえさせてくれる、そんな記録です。
 著者の八木沼与三さんは、忘れ去られようとしている山と人との係りを、自分の体験から後世にぜひ知っておいて欲しい気持ちの一心で、これを書いたような気がしてなりません。(著者は現在の桑折町・合併前の伊達郡睦合村松原の出身で、同村最後の村長をされた方のようです)

 以下長文なので、割愛し紹介します。
 「松原山」
昔は山を焼き、そこへ「そば」などを作った、これを火野と云った。また、浅く起こして、そばや麦を作り、荒れればまた別に起こして畑をつくった、これを切替畑と云った。また、灰(アク)焼きと云って山に泊り、笹などを刈って焼き、灰にして脊負って来て肥料とした。柴を伐り、炭を焼き、萱を刈りそれを売って生計を助け、山に頼って生きて来た各村の人達は、決められた山境があって、恩沢に浴していたのであったが、元禄二年入会権をめぐって論争を起こし、遂に幕府から奉行達が、現場臨検という事件に発展してしまった。

明治三十二年林政改革以後は、国有林にはいることは出来なくなった。大正の半ば頃までは山札を受けて、奥地の萱を刈ることが出来た。秋の夕暮、何十頭の馬が萱をつけて、白い穂をなびかせながら、山を降りて来る風景は、美しい風物詩であった。

山草は最も重要な田畑の唯一の肥料であった。五月も半ばとなると、野山から若草を刈って、直ちに田へ入れたものであった、これを刈敷と云った、山に卯の花(どうのすねともいう)が咲く頃、刈敷刈りが盛りで、大正の終の頃まで刈った。第一次世界大戦も終った大正の半ば過ぎには、化学肥料も次第に出廻わり、農具も逐次機械化され、商工業の発展に伴い、農村の労働力も次第に減り、自然農村の家畜の飼育も減少する傾向になり、山の採草地もあまり必要としなくなった。

 大正十五年四月、松苗木二万本の寄附があつた。この松は旺盛な成育を遂げ、昭和三十四年に売却されたが、最高峯上朱淵の三角点のまわりに、五本の記念木が残された。信達平野の何処からも見える松原山の象徴である。 森林の成育と共に、林道の必要に迫られた。昭和二十七年、林道開設工事に着工、五ケ年の継続事業として、年々全組合員が工事に当り、実に模範的な林道の完成を見た。組合員は経費を投じ、全員出役して植林をし撫育して来た、年々何日かづつは、全員が山に登って作業をしたが、それはまた組合員の楽しい親睦の場でもあった。そこから床しい和が生れた。

明治になり海外貿易が開けると、生糸の輸出が盛んになり、生糸は国脈をつなぐとさえいわれ、伊達郡は全国に知られた蚕の本場であった。殊に蚕種の製造が盛んであったが、養蚕の最も恐るべき害敵は蠁蛆である。国は法律を以てこの防除につとめた。蠁蛆の成虫である蝿が桑の葉に卵を産み付け、壮蚕期の蚕がそれを桑と共に食下すると、蚕体内に寄生して発育し、繭を破って出て来るものである。山の畑にはこの蠅が居ないのでこれを「ばの桑」といった。山を開いて桑を植え、馬の脊によって桑を運び出した。松原山も国有林であった当時から、至る所開墾して桑を植えつけた。山が盛んに開墾された結果、降雨の度毎に土砂が流れ出し、各沢々は堰を埋めた、その土砂の為に、堰堤が山をなして居たものである。
大正の末期より昭和の始めの不況から、養蚕も次第に衰微し、桑園は果樹園に変った。山の開墾地も次第に原野にかえり、再び植林される所もあり、この頃になってようやく水も治まり、土砂の流出も少く一色の緑をとりもどした。

戦後日本は驚異的な経済成長を遂げ、昔の農業国は世界の工業国として発展し、農業構造も大きく変貌した。農具はすべて機械化され、家畜は全く姿を消してしまった。専業農家も極めて少くなり、農家の生活も文化向上し、燃料を山に求める必要もなく、山は我等の生活に縁の遠いものになってしまった。

柴を伐り、枯枝をとり、落葉まで掻集めて焚いたのは、ついこの頃までのことであった。われわれの祖先は、この山に抱かれ、この山に頼って生き抜いて来た、この山には祖先の血が通って居るのである。我等は松原山を心のふるさとゝして、この山の美しい自然を大切に護り育てゝ行きたいものである。

(2015年11月)