※ 「調査余録番外編」〔偶 然〕

 私は祖父母の顔を知らない。それは出自によるのが一因のようだ。祖父・忠六から始まった私の生家は、自作・小農である。佐藤本家に三男として祖父は、慶応元(1865)年に生まれ、明治21(1888)年に、五十辺村の尾形タカ(慶応元年生)と結婚し、新宅として田畑を分けてもらい、農業に従事した。三女をもうけたところで、妻に先立たれたため、妻の姉の尾形シカ(文久元(1861)年生)と明治29(1896)年再婚した。その長男として生まれた長六(明治32(1899)年生)(シカにとっては三人目の子)が私の父である。父は、昭和4(1929)年に、瀬上町の阿部コウ(明治37(1904)年生)と結婚し、五女二男をもうけ、私はその末子として、昭和21(1946)年に生まれた。父はあまり農業が好きではなかったためか、農業だけでは食えなかったからなのか、理由は分からないが働きに出、母が農業をやり、父は休日にそれを手伝っていた。

 再婚の祖父母から見れば長六は、忠六34才とシカは38才を過ぎてからの子であり、一番下の孫の私に至っては80才を過ぎてから生まれた計算になるが、すでに私が生まれた時には、もう二人はこの世に居なかったのである。これは直接的な理由ではある。それよりもなによりも、写真を撮り、記録に残すなどという発想も、経済的余裕も無かったのがその当時の百姓の状況だったのかも知れない。それと、もしかすると、この文章を書いていて、遠い昔家族の誰かに聞いた様な記憶が ふと 頭に浮かんだ?が、昔はその様な人がいたような気もする「大の写真嫌い」だったのかも知れない。

 ちなみに、祖父の上の兄・二男は幼くして亡くなったらしく、弟で四男の定七は分家はせず、鎌田村に婿として入った。本家・兄で長男の忠太郎は農業に従事し、今、その後裔は私と同年齢で、大専業農家として頑張っている。

 系譜は複雑で、親の実際の親戚づきあいは違っていたと思うが、子供の頃の私は、一に、祖父と先妻タカとの長姉・佐藤ハツ(明治23(1890)年生)とその長子・大六(大正6(1917)年生)。二に、祖父の後妻シカの長子・尾形芳蔵(明治23(1890)年生)。三に、私の母・コウの長姉で実家の家督を継いだ・阿部ハツ(明治22(1889)年生)とその長子・貞衛(大正3(1914)年生)が記憶に残っており、そんな親戚感覚で育った。

 しかし後日、意外なところから祖父を想像する手掛かりを発見した。平成12(2000)年、祖父の弟・定七の子息・志田三木氏が『「つれづれなるままに」競馬と共に歩んで70年』を上梓した。そこには、昭和10(1935)年に一家で撮った写真が掲載され、66才の大叔父・定七の顔があった。その表情は、間違いなく「本家一族」の顔であり、父・長六に何処となく似ているようでもあり、無性に懐かしく感じられた。祖父もこんな人だったのかと・・・。
 
 そして、この 山・峠収集作業 には、新編会津風土記など、先人の残した著作も大いに参考になりましたが、その一つ、農作業に従事するかたわら、信夫・伊達の村々を調査し、あの「信達一統志」を著した志田正徳(白淡)はこの志田三木家の一族とのこと。

 それにしても、「祖母シカの妹タカの 死がなかったなら 私はこの世に生を受ける事は無かった」「一人の死の上に、偶然私は現在を今生きている」・・・。

 私の場合、戸籍簿の記録で遡ることのできた祖先は六代前で僅か二百数十年でしかなかった。それ以前の過去の出来事などは全く知ることは出来ない。

 八万年前(?)アフリカを旅立った祖先が、石器と縫針の発明により、この日本列島迄到達したという・・・。そこにどんな物語があったのか・・・、現在にどう繋がっているのか・・・、そして人類の未来はどうなるのか・・・?、まさに超長編の見果てぬ物語ではある。

(2018年1月)