51 「 天空のプロムナードは 知事も知らない ?」〔喜多方市〕

管理番号 0900三国岳 3880七森 0899種蒔山 3289切合 0898草履塚 0897北峰 0350飯豊山 0895駒形山 0896御西岳

 福島県の形を、(多少無理がありますが)蟻を側面から見て、左を向いたその頭の形に見立てると、その頭から一本の短めの触角が、新潟・山形両県境の稜線を突き破って、県土が、三国岳から御西岳まで約8.5km程伸びているのを知る県民は意外と多くはないのかも知れません。
 その歴史的経緯を知りたく、県庁宛メールを送りましたところ、早速連絡を頂きました。が、当初その電話の内容は全体としては(耳の遠くなった私の聞き違えかも知れませんでしたが)「どんな地図を見て、そんな事を言っているのか?」との問合せに私には感じられましたので、上記のような、刺激的なタイトルとしたわけです。
 しかしその後、理解頂き、資料も送って頂きました。大変おせわになりました。ありがとうございました。

 そこで大切な本題です。
 県の担当者を通じていただいた、平成22年3月・喜多方市教育委員会発行の「喜多方市文化財ガイドブック」の68ページには以下のような、大変興味深く面白い記述がありましたので紹介させていただきます。

「福島県のへその緒」
 地図を広げて眺めてみると喜多方市の西北端が、山形県と新潟県の境を割り入るように伸びている。ちょうど「へその緒」のような形をしているが、この不思議な地形は約三尺幅の飯豊山の登山道と飯豊山神社地、茶屋の敷地などで成り立っている。実はこうした形状となるのに、明治時代の福島県庁移転問題が大きく関わっている。
 明治十六年(一八八五)三月二十六日の福島県会に、「県庁が福島町に置かれて北隅に僻在しているため官民不便が生じている。県下万民の幸福のためには政庁は中央になければならない」との理由で、「県庁ヲ安積郡ニ移転スルノ建議」が出された。建議は県庁だけでなく学校や病院、裁判所など政治・経済・文化の拠点施設の移転をも意味していたので大論争となったが、国は「県庁は移転せず」、県域であっても県庁から遠く越後国領域であった東蒲原郡を新潟県に編入させることで決着させた。
 東蒲原郡は恵日寺の寺領となって以来約七百年間会津の一地域であったが、これにより新潟県に編入された東蒲原郡実川村(現・阿賀町)と耶麻郡一ノ木村(現・喜多方市山都町一ノ木)とが飯豊山で境することになり、明治二十一年(一八八七)七月七日、実川村は新潟県知事に対して、飯豊山神社はもともと実川村の土地に鎮座するので、東蒲原郡郷社に引き直されたいことなどを主張して「現時福島県郷社飯豊山神社ヲシテ新潟県郷社ニ引直之義ニ付願」を提出した。
 訴えられた一ノ木側では、「飯豊山神社の歴史は越後国の資料に記載は無く、一ノ木側に数多くの証拠の品々がある」「境内地も道路敷きも一ノ木村の地籍となっていて、実川が所有することなど昔からなかった」などと否定し、対立した。
 福島県と新潟県は、明治二十四年十二月に飯豊山神社の帰属と県境の決定を内務大臣西郷従道に上申して裁定を仰ぎ、その後、二十数年間の裁判を経て、明治四十年八月に現地調査を実施し、調査結果を以て九月十三日午前九時より新潟県津川郡役所において飯豊山神社と土地の領有に係る双方からの主張に対する評定を行った。結果一ノ木側の主張が認められ、ここに県境と土地と神社の帰属が「福島県、一ノ木村」に決定し、それ以降の地図には「へその緒」のような形で明示されるようになった。

 ※タカネマツムシソウなど一面のお花畑の中を逍遥できる雲上の楽園、 この 飯豊連峰の景観を大切に守り次代に引き継ぎたいものです。そして二十数年間もの長い裁判をたたかい抜き、県土とした、喜多方市・一ノ木住民の祖先の努力に想いを馳せ・・天晴天晴

 追記
 その1 知事に対する弁明です
 ①知事を貶める考え等は毛頭ありません。その証拠として、当方の(乳)は間違いなく日々減少しきており、風前の灯です。県庁に問い合わせても当初はそうであったし、大部分の県民にも又同じく知られていないであろう、との表現として県民の代表でもあり 知事も知らない との文言を使ったつもりです。お許し下さい。
 ②抗議のメール等を頂戴いたしましたならば、直ちに掲載させて頂きます
 ③仮にトコロバライ などのクダシブミがありましても、異議の申立は一切致しません。

  その2 福島県の形についてです
 「(多少無理がありますが)蟻を側面から見て、左を向いたその頭の形に見立てると」と書きましたが、(株)童心社発行・秋元茂作・絵本「なににみえるかな?日本の県地図」 によりますと、福島県のかたちは、「ワンワン大きな 犬のかお」との事です。

 その3 この経緯について、新潟県に編入になった東蒲原郡の 赤城源三郎 は著書「東蒲原郡のなりたち」の中で以下のように書いています。
  ・・・福島県は、地図を広げで見るとよく解るが、県庁のある福島は、非常に北に片よつていて、地理上の中心は郡山である。もとの福島、若松、磐前の三県が合併してから、県庁を郡山に移転する事が県民大多数の希望であつた。この問題は、三島県令がその意見を持っていて、後任の赤司敬信(後に欣一と改名した)が県令となつた時、この考えを引継いだ。
 明治十八年の福島県会通常会に於て、この事が議題となつた。三月十八日に「福島県庁を安積(あさか)郡郡山に移すの建議」とゆうのが、提出され、十六対三十七の差を以て可決された。県会は議長佐藤泰次の名を以て、内務卿山県有朋に上申書をさし出した。
 福島及びその附近では重大問題として反対運動を初めた事はもとよりであつて、政府に対して、強い運動を行つた。
 政府の裁断は年を越えて、明治十九年に至つて下された。五月十日に、県庁は福島に存置する。但し、最も遠隔の地である東蒲原郡を新潟県に編入するとゆう事が勅令第四十三号で示されたのであつた。
 本郡が新潟県へ編入された事は、郡民の便利この上もない事であるが、そのいきさつは前記の如くであり、こうして、七百年の関係から離れて、新らしい一歩をふみ出したのであつた

(2018年1月)