54 山程の山があり、山論にはならなかった〔郡山市・会津若松市〕

管理番号0242 金山・小倉山・十八丁山・十八町山・▲金山(俗稱・金山)

 当調査余録の40では「壮絶 ! 山論を鉄火裁判で決した」を紹介をしましたが、これは山の権利を主張しなかった 真逆の話です。

 郡山市湖南町赤津は、古くは会津藩領であったようですが、現在の会津若松市との界には小倉沢(小志田)の集落があり、昔は金鉱山などもあった所の様です。

 集落の西の山には三角点「金山」があり、若松と郡山の境界線は南の会津布引山 から稜線を辿り此処まで来たのが、急角度で北東へ曲り猪苗代湖上へと続きます。地図を眺めていて何か不自然だな・・・と云う感じがありましたが、やはり面白い歴史があったようです。

 以下、湖南町の郷土史家 橋本 武 さんの記述を紹介します。
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 赤津村字小倉沢の湖岸に「従是南弐間壱尺境」と達筆に彫った岩礁がある。伝承によればこの郡鏡石は正式なものでなく、昔、赤津村柏木石吉という石工が或る日ここで漁をしていたが不漁の退屈しのぎに、傍らの石に刻んだ文字という。
 石工の思惑はこうてあった。
 その頃湖西一帯には野鹿が群れ棲んでいた。ところが会津藩主は鹿を保護していたから.もし流れ弾に当って我が領分に死んでいようものなら、それこそ厳しい吟味の上、発砲者は極刑に処される。そのために領民は鹿の死骸をみつけ次第他領に片付け合うのであった。朝寝をしていた方がその責めを負わされる。そこで、態々遠くの他領界まで片付けるのは厄介千萬なので、いっそ近くに領界を設ければ得策だ、というのであった。それで手近かな岩に境文字を彫りこんだのである。
 ところが、明治初年の郡境査定のとき、この石の文字が達筆なのでここが郡境に決定されてしまった。
 当時は山もあり余っていたし、漁もなかったのに湖岸の管理が容易でなかったからこの査定には誰も反対はしなかった。真実の郡境ならば、金山(十八丁山)の三角点から分水嶺を走れば、当然赤崎に達し赤崎の景勝地は安積郡領に入り、現在の郡山市の観光地になるところであった。
 金津布引山の西の境は赤津村と湊村の協定て「丸山展望磐梯見透し」となっている。ところが、丸山というのがどこにあるのか.前橋営林局でも境界と査定するには幻の丸山を見付けるのが先決てあったわけてある(湖南館報)。
(「村境をまもる」郡山地方史研究団体連絡協議会 橋本武 著 昭和53年10月23日発行 13ページより)

(2019年2月)