57 地域史「小綱木史」に感謝・感謝!〔西会津町〕

管理番号 5141 崇里峠山(反峠山) 峠378 反峠

 新編会津風土記の小綱木村の個所には載っておりませんが、その百数拾年前?に書かれた「寛文五年 吉田組風土記」の小綱木村の個所に書かれている「崇里峠山」を探しに、当時小綱木村と呼ばれていた西会津町奥川大字大綱木字中村を尋ねました。

 当初は訓方も判かりませんでしたが、その記述から、三角点(名)・狐林 のある山であろうとの見当がついたのですが、地元の皆さんは「崇里峠山など知らない」とのことで、調査は行き詰まっていました。

 何度か当地におじゃまするなかで地元の荒海さんにお会いし、急転直下解決となりました。

 それは、荒海さんの父・清衛さんが平成15年3月1日に上梓した「小綱木史」にありました。
 その54ページには「反峠」の記述があり、荒海さんはその記述から、昭和45年(1970)当時を回顧しその位置を特定し、その峠を下った先には、現在は耕作放棄地になっているが田畑があり、昔はよく利用した峠であったとのお話を聞かせてくれました。

 結論としては、「反峠」のある山が「崇里峠山」=「反峠山」でした。もしこの「小綱木史」にこの「反峠」の記述が無ければ判明しないことでした、清衛さんのこの労作に 感謝・感謝 !

 ※上記吉田組風土記が書き著された当時の様子を、西会津町教育委員会発行の「わたしたちの郷土西会津町」の101~102ページには以下のように紹介されています。

 土地を開いた矢部理左衛門
 矢部理左衛門は、1615年(元和元年)に奥川地区の真ヶ沢にうまれました。
 おさないころから、すぐれた子どもであったと伝えられています。
 理左衛門が30歳のころの農民たちの生活は苦しく、ほかの土地へ逃げていく人たちなども数多くいて、田畑は荒れていました。
 保科正之が会津藩主になり、新しく田畑を開くことをしょうれいしていることを知ると、理左衛門はいち早く新しい田を開く計画をたてました。
 奥川地区の向原付近の原野に目をつけ、会津藩に新しい田を開くことをねがいでて許可されました。
 1645年(正保2年)には、真ヶ沢から吉田というところにすまいを移し、大勢の人を使って雨の日も風の日も休まずに、新しい田の開発につとめました。
 およそ10年後には、たくさんの米がとれるようになり、その成果を会津藩にほうこくしました。
 会津藩では、理左衛門のはたらきをみとめ、新しい田が開かれたあたりを吉田組とし、理左衛門をその組の郷頭(村を治める役)にとりたてました。
 その後も、理左衛門は新しい田を開くことにつとめ、26の村々に新しい田を開き、40本あまりの水路を切り開いて水を引きました。
 また、生活が苦しくて越後(今の新潟県)や米沢の方に逃げていた人々を100人以上も呼び返して、米つくりの仕事にあたらせました。
 新しい田を開く仕事の途中お金が不足したため、会津藩から借りたという記録ものこっています。
 郷頭をやめたあとも新しい田を開くために努力しましたが、ついには病気になり、1667年(寛文7年)8月52歳でこの世を去りました。
 理左衛門が新しく切り開いたと思われる吉田付近の田からは、毎年たくさんの米がとれるようになりました。

 ※なお、清衛さん執筆の「小綱木史」については、県内のどの図書館にも所蔵されていないことが判りましたので、荒海さんの了解を得、福島県立図書館に寄贈させて戴きました。

(2019年8月)